保健係の千枝子ちゃん


「これから衛生検査を行います。ポケットの中のハンカチとちり紙を机の上に置いてください。保健係は検査をお願いします。」

 4年2組の担任の佐藤先生は朝礼が終わるとそう言いました。このクラスの保健係のリーダーの千枝子ちゃんは「はい」としぶしぶ立ち上がりました。

 このクラスでは新学期が始まってから毎週水曜日に衛生検査を行うことになっていました。
 衛生検査の内容は「つめを切ってきた」とか「朝ごはんを食べてきた」とか「朝うんちをしてきた」とか、養護の先生の作る「保健だより」の「今月のもくひょう」によって毎回変わりますが、ハンカチとちり紙を持ってきているかどうかのチェックは毎回欠かさず行われていました。

 ちり紙を厳しくチェックするのには理由がありました。千枝子ちゃんの小学校は木造の古い校舎で、お便所も紙が備え付けられていない汲み取り式です。学校のきまりでもちり紙を持参することになっていました。

 女子は紙をもってこないとおしっこもできないので以前から持ってきて何ともなかったのですが、問題なのはふだんあまりちり紙に用がなくて持ってこない男子です。鼻水が出たとき袖でかむ不潔な子がいたりして、それだけでも困りものでしたが、一番困るのは学校でうんちしたくなった時です。

 お便所の戸の前で持ってこなかったことに気付いて、どうしていいか迷っているうちに限界が来て、そのままおもらししてしまったとか、ちり紙の代わりに靴下やハンカチでふいてそのまま便槽の中に捨てて汲み取りに来たバキュームカーのホースを詰まらせたとか、なにも拭くものがなくて結局おしりを手でぬぐって壁にこすりつけて汚したとかいろいろな事件が起きたので、この3月に先生方も会議を開いて対策を検討しました。

 最初はいち早く水洗式になった隣の大きな小学校のようにトイレットペーパーを備え付けるということで決まりそうでしたが、予算の関係と「ちり紙をきちんと持ってこさせることも教育」との教頭先生の一言で、紙を置かないで代わりにちり紙を持ってきているかどうかこれまで以上に厳しくチェックすることが決まってしまいました。

 保健係の千枝子ちゃんはこの衛生検査のことで朝からユーウツでした。登校中、今日衛生検査があるなと考えただけでお腹の弱い千枝子ちゃんは急にお腹が痛くなり、学校に着くとすぐにお便所に駆け込んだほどです。

 といっても、もちろん千枝子ちゃんがその日ハンカチとちり紙を忘れてきたわけではありません。
 彼女と同じ5班に新学期が始まってからこの検査のときに一度もちり紙だけ机の上に置いたことのない、けんいち君という男の子がいたからです。
 衛生検査の結果は、各回、班ごとに教室のうしろに貼らた大きな表に記されることになっていました。
 班の全員がすべての検査項目について合格すれば班のところに○が書き込まれて「○班」(まるはん)になるのですが、班の中で一人でも一項目でも抜けがあると共同責任で×が書き込まれる「×班」(ばつはん)になってしまいました。

 しかも、この表はただ○×だけで終わりでなくて、○が2つ以上連続すれば3回目以降には○の代わりにごほうびとして銀のシールが貼られ「銀の班」に、銀のシールが2つ以上連続すれば、銀のシールを卒業して金のシールが表に貼られる「金の班」になることになっていまし

 一学期ももう終わりに近いこともあって、女子は白いちり紙どころか香水入りのちり紙まできちんと折りたたんで持ってくる子がいる一方で男子は灰色のちり紙を丸めてきただけしまいという違いはあるものの、多くの班は「○班」を卒業して「銀の班」になっていきました。それどころか「金の班」さえももう珍しくないのに、千枝子ちゃんの5班は71/のせいで、4月からずっと「×班」のままでした。

 「×班」たからといってとくに罰則があったわけではありませんが、保健係という先生に代わってクラス全体の検査をやらなければならない自分がいる班に金や銀のシールどころか、まだ一つも○がないというのが千枝子ちゃんはとても恥ずかしかったのです。

 それに千枝子ちゃんはけんいち君が苦手でした。

 それはけんいち君の家が魚屋だったせいもありました。千枝子ちゃんは幼稚園の年中組のころ魚が原因の激しい食中毒になり二ヶ月間入院したのです。それ以来お腹が弱くなり、何かにつけてお腹をこわすようになりました。そのせいか同じ年頃の女の子とくらべても背が低く、クラスで一番のチビでした。そんなことがあって、魚に関するものは一切苦手だったのです。

 でも、それ以上に千枝子ちゃんがチェックに行くと必ず意地悪なことや嫌味を言うのです。

 けんいち君は活発で運動が得意で、遊びでは男子の中心にいつもいるような子でした。
 でも、女子から見たけんいち君は乱暴者でよく女子をからかったり意地悪する困った子だったのです。
 だから、今回こそ、けんいち君のところにちり紙があってほしい、と祈るような気持ちで、千枝子ちゃんはけんいち君の席に行きました。
 でも、けんいち君の机の上にはハンカチとちり紙は置いてありませんでした。

「けんいち君、また、ハンカチとちり紙持ってこなかったの!」
「ゴリブーがブスだから持ってこなかったんだよ、やーい、ぶ~す、ぶ~す!」

 「ゴリブー」というのは「ゴリラのブス」の略でけんいち君が千枝子ちゃんに勝手につけたあだ名です。
 「ブス」の方は人によってはたまにそう見る人もいるかもしれませんが、なぜそれに「ゴリラ」がつくのは、千枝子ちゃんはいくら鏡を見てもわかりませんでした。

 けんいち君は他にも「おまえはイソワカメだ」とか「おまえはカオゲーだ」という調子で意味不明だけど語感がひどいあだ名を女子に勝手につけて男子のあいだで流行らせてはからかうといういたずらをしていたので、女子には嫌われていたのです。

 千枝子ちゃんは勝気な性格の女の子なので、この時が休み時間ならば「けんいち君! わたしゴリブーじゃないもん!」と、つい、売り言葉に買い言葉で、けんいち君に言い返している千枝子ちゃんでしたが、今の千枝子ちゃんはクラスの保健係の仕事をしているので、そういう言葉をぐっと飲み込みました。

「けんいち君、あなた学校でちり紙が必要にならないの? 鼻をかむとか。」
「なんで便所紙いるの? おれ鼻水なんかめったに出ないし」
「けんいち君はお便所でちり紙使わないの?」
 

「そうか、ゴリブーはオンナだからオンナベンジョでションベンするとき便所紙必要なんだな。でも、おれオトコだから使わないよ。おれ、いつも立ってするよ。それにオンナはオンナベンジョでションベンするときもいつもケツ出してしゃがんでするんだろう、あー恥ずかしい。」

 気がつくとクラス中の視線がこの二人に集まっていました。でも、千枝子ちゃんはけんいち君の言いわけにだんだん腹が立ってきたので、少し恥ずかしかったけど思い切って言いました。
「うんちよ! いくら男の子でも学校のお便所でしゃがんでうんちするでしょう。まさか、ちり紙でふかないで家に帰っているじゃないでしょうね?」

「ゴリブーは学校の便所で学校うんこしてるんだ! 汚ねー。恥ずかしー。ゴリブーは学校うんこしたから今からゴリウンコだな。やあいゴリウンコ!ゴリウンコ!」

 千枝子ちゃんはけんいち君が自分に勝手に付けられた「ゴリウンコ」というあだ名の余りのサイテーさに言い返すことができませんでした。
 しかも、ついこの前、本当に学校のトイレでこっそりうんちしてきたばかりなので、このけんいち君がつけたあだ名に顔が真っ青になりました。
「まさか、バレていないよね・・・女の子だし・・・」
 千枝子ちゃんもクラスの男子が学校のトイレで「学校うんこ」したのがバレるどういう運命が待っているのか知っていました。

 休み時間にクラスの男子の一人がドタドタと教室に駆け込んできて、アナウンサーの口調を真似ながら「ピンポンパポーン! 臨時ニュースです! 臨時ニュースです! ○○がオンナベンジョに入りました! これから学校うんこの模様です!」と興奮ぎみにうれしそうに叫んでいるのを、この4月になってからも千枝子ちゃんは何回も目にしました。
 ちなみにそのとき駆け込んでくるのはたいていけんいち君です。

 この「ピンポンパポーン!」が来ると、千枝子ちゃんをはじめ女子が、学校でうんちするだけでなんで大騒ぎするの、と軽蔑する中、クラスの男子たちは「○○がうんこしているそうだよ、行ってみようぜ!」「おお、行こう!」とつぎつぎとトイレへ向かっていくのです。

 しばらくすると、そのうんちしていた本人の後をぞろぞろトイレに行った男子たちがついて教室に戻ってきます。そのときの本人の顔は恥ずかしそうにうつむいているかほとんど泣いているをしているかのどちらかでした。
 その子がトイレでどういう目にあったのか女子は普通わかりません。ひどい目にあっていることは間違いないなさそうですが、その子は決して話しません。先生にも言わないのです。
 でも、千枝子ちゃんは偶然それを知る機会がありました。

 ある日の昼休み、千枝子ちゃんはまたお腹が痛くなってお便所に入っていました。
 そのときドンドンドンと壁の向こう側の男子便所からドアを激しく叩く音がしました。
「開けろよ、よしお、そこでクソしているのはわかっているんだからな」
 けんいち君の声でした。
「やだよ! 恥ずかしいよ! うんこがしたいんだから」
 よしお君の必死の返事に対して、さらに強くけんいち君はドンドンドンと激しくノックしました。
 いくら男子便所でも千枝子ちゃんは震え上がりました。少しでも早くお便所を済ませたかったのです。でも、お腹の痛いのはなかなか収まりません。千枝子ちゃんにそのときできたのは息を殺して音を立てないようにうんちすることだけでした。
 「開けないか、よし、こっちから開けてやるぞ!」
 けんいち君はそう言うと、ドアを押したり引いたりしているらしい音が聞こえ始めました。古い木造建築の校舎の古いお便所なので小学生の手によるその程度でもあくことがあるらしいです。
 「頼むから開けないでよ!」
 よしお君はまた必死に叫びましたが、そんなのお構いなしにドアを引いたり開けたりする音が女子便所まで聞こえてきました。
 「開いたぞ、ケツが見えるぞ」
 「見ないでよ! 本当に出そうなんだから。」
 「はやくしろよ、出そうなんだろう」
 「ウンコ! ウンコ! 早く出てこい、よしおのウンコ!」
 「おっ出てきたぞ、すげーでけーな。でも、ほんとにくせー、きたねー」
 「見ないでよ! お願いだから!」
 「ウンコ終わったな、今度はケツ拭くとこ見せろ!」
 よしお君の声は半泣きでした。でも、千枝子ちゃんはどうすることもできないままお便所を出ると大急ぎで教室に戻りました。

 その子に対する仕打ちはこれだけでは終わりません。教室に着くとその子にはいつもの「学校うんこインタビュータイム」が待っていました。
 クラスの男子一同に囲まれて授業が始まるチャイムが鳴るまでに「大きいのいっぱい出た?」とか「ケツ、ちゃんと拭いた?」と「いつからクソしたくなった」とそのときのうんちのいろいろな事を遠慮なくしつこく聞かれるのです。
 そのとき質問のために手を上げる子を指名する進行役もたいていけんいち君でした。

 そういう男子たちの遠慮のない質問に対して、泣きながら一言も答えられない子もいましたが。そういう子に対しては「お前汚いな、学校うんこしたんだろう!」というヤジが飛びました。
 千枝子ちゃんは最初はそういう子がかわいそうだなと思っていましたが、最近はあまり同情しなくなりました。
 そういう泣いていた子ほど、次にほかの子が学校のお便所でうんちすると真っ先にお便所に走ったり、しつこくインタビューすることがわかってきたからです。
 自分がされて嫌なことをどうして他人にするのか、千枝子ちゃんには理解できませんでした。

 ただ「硬いのがぽとんと」と恥ずかしそうにぼそっと答える子も案外多かったのです。男子たちはそんな答えが返ってくるたびにバカみたいに大口を開けて「わははっ!」を笑いました。
、でも中には、最初は恥ずかしそうにぼそっと答えていてもだんだん調子に乗ってきて「ぶりぶりぶりっ!とすごい音がしていっぱいクソが出たよ。いくら拭いても拭いてもクソがべっとりとついてきて、うちから持ってきたちり紙が足らなくなって・・・」と聞くだけで、その日の給食がカレーシチューだったら絶対食べられなくなりそうなくらい詳しく説明してくれる子もいたのです。
 そんな汚い話を聞かされる女子の不愉快な顔をよそに、男子たちは大盛り上りの爆笑大会でした。

 千枝子ちゃんはそんな自分たちのクラスの友だちのうんちで盛り上がる男子の気持ちが理解できませんでした。

 友だちの中には学校で絶対うんちしないという子もいましたが、千枝子ちゃんはなるべく登校前に家でうんちしてくるなど学校でしないように努力しているものの、おなかが弱くてよく壊すので、どうしてもしたくなったら学校ですることにしていました。
 それに、うんちは食べ物を消化したかすで、おなかの中にためておくと体に良くないからです。

 といっても、千枝子ちゃんもやはり学校うんこは恥ずかしかったので、トイレに誰もいないときを狙うとか、誰かが入っていたら、一つ間を開けてするとかいうようなバレない努力はしていました。
 逆に見るからにおなかの痛そうな子が先に入ってきても最低一つ間を開けて入り、おしっこしている時に前の方に入った子がうんちを始めたら音はできるだけ聞かないようようにして早く出るようにしました。
 千枝子ちゃんは自分がうんちしていることも知られたくありませんでしたし、ほかの子がうんちしていることも知りたくありませんでした。だからほかの子のうんちに興味津々の男子が理解できなかったのです。

 そんな細心の注意を払っても、かなり臭いうんちをして出たあと、ドアの外にクラスの友だちが待っていたことはありました。
 でも、そんなときでも動揺しないで「ゴメン、臭いかも」と一言いえば「いいよ、いいよ」と許してくれました。男子のようにうんちをして個室を出てきたからといってからかわれるはありませんでした。
 こういうときお腹の弱い千枝子ちゃんは本当に女の子に生まれてきてよかったなと思いました。
 ただ、恥ずかしさのあまり顔を伏せて無言で走って逃げるようなことをしたら「何なのよあの子、かわいい顔してうんち臭いのよ!」とカゲクチを叩かれることがあるのが女の子の怖いところですが。

 だから、千枝子ちゃんは朝に学校のお便所でうんちしてきたのが男子にバレるのだけはまずい、ひょっとしたら女の子なのインタビュータイムなの・・・と思ったのですが、さっきからけんいち君は「ゴリウンコ! ゴリウンコ!」と一人興奮気味に叫んでいるだけでそれ以上聞いてくることはありません。
 よかった、と千枝子ちゃんは思いました、現実には女子便所で個室が閉まっているからといっていくらエッチな男子もチェックなどするはずがないのですから。

「こらっ、やめなさい!」
そこへ佐藤先生がやってきました。
「けんいち君、またちり紙持ってこなかったの! 
 連絡帳にもあれほどちり紙を持ってくるように書いたのに?
 持って来ないと困るのは、あなた自身よ!学校でうんちしたくなったらちり紙がないと困るでしょ!
 ちり紙がないからといって、ハンカチや下着で拭いて、そのまま便槽に捨てる子がいると汲み取り業者さんが困っていたわよ。」
 そういう先生の注意に対して、けんいち君はボソッとつぶやきました。
「学校でなんか、オレ、クソしない」
「けんいち君、うんちなんか誰でもするものに決まっているでしょう! しばらく廊下に立って反省しなさい!」
 結局、けんいち君はしばらく廊下に立つことになりました。

 実は朝、家を出るときもおなじようなセリフを、けんいち君はお母さんに聞かされました。
 けんいち君の家は魚屋ですが、その日が魚市場の休日で、うっかりお母さんが寝過ごしたこともあって、寝坊して遅刻気味で、ご飯もろくろく食べないで、大慌てで家を出ることになったのです。
 そのとき走って出て行こうとしているぶお君に向かってお母さんは「のぶお、また、ちり紙を持っていかないの! ちり紙を持っていかないと、学校でうんこしたくなったとき困るでしょ!」と叫びました。

 しかし、けんいち君はそんなお母さんに振り向くことなく、一目散に集団登校の集合場所に向かって駆けていきました。

 実は、けんいち君はハンカチはともかくちり紙を学校に持って行くことが嫌だったのでした。
 ちり紙にはもちろん鼻をかむという使い道もありますが、けんいち君にとってちり紙は、何よりもおしりを拭くための紙です。
 学校に持っていくだけで「ぼくは学校でうんこします」と言っているようなものでした。
 折りたたまれたちり紙を見るだけで学校ののトイレにしゃがみながら、自分が一枚一枚折りたまれたちり紙を開いては持って、後ろの方に手を回しておしりを拭く恥ずかしい光景が目に浮かぶようでした。
 ましてやそれを検査のために机の上に置くなどということは人前で自分がそれでおしりを拭いているようなもので、とても恥ずかしかったのです。

 けんいち君は1~2年生の間は学校でこのちり紙を使う機会がついにありませんでした。学校のトイレではいつも立っておしっこをするだけで「オンナベンジョ」に入っておしりを出してしゃがんみ最後にちり紙を使うようなまねをしない、そんなオトコらしい自分が誇らしく思えて仕方がありませんでした、
 特にオトコのくせに「オンナベンジョ」に入る子をバカにしたたことは言うまでもありません。

 でも、三年生になって授業時間が増えてくると、けんいち君にもこれまで何度か学校でちり紙が必要になりそうな危機がやってきました。早い話が授業中うんちがしたくなったのです。
 でも、自分が「学校うんこ」しているところが見つかったら、何が起きるか容易に想像がつきました。自分がやってきたことがそっくりそのままに自分の身に降りかかってくるのです。
 自分の「学校うんこ」を見つけた誰か他の子が「ピンポンパポーン! 臨時ニュースです! 臨時ニュースです! のぶおがオンナベンジョに入りました」と叫びながら教室に駆け込んで、やって来たクラスの男子たちが見守る中ドアを開けられ、終わったあとはチャイムがなるまでインタビュータイム・・・。
 その屈辱を考えるとものすごく恥ずかしくて絶対にけんいち君は学校でうんちできませんでした。
 幸い、一日中、学校でガマンし、帰りの道を走って、家のトイレに駆け込んでぎりぎりセーフ、というのが運良く続いてきましたが、いつまでそれが続くのかけんいち君は不安でした。いつか学校で本当にガマンできなくなる日がやってくるかもしれません。

 でも、日頃そんな不安を抱えていたからといって「学校うんこ」する子にけんいち君がやさしくなったといえばそんなことはありませんでした。
 自分がうんちを必死に学校でガマンしているのに、その子たちが学校でうんちしていることに何か許せないような気がしたのです。
 それに加えて、学校でうんちしたくなった恥かしさを身をもって知れば知るほど、そしてそういう経験を重ねることで「学校うんこ」の不安が大きくなればなるほど、その子たちをもっと恥ずかしい目に合わせようという不思議な感情が心の奥から湧いてくるのをけんいち君は抑えられませんでした。
 
 つい二日ほど前も学校でうんち中にドアを開けてしまった子がちり紙をズボンのポケットから出しておしりを拭こうとしたとき、それを取り上げてからかうというひどいことをしてしまいました。
 その子が数枚の薄っぺらい紙のためにズボンとパンツを下ろしてしゃがんいる姿で「お願いだから、紙返してよ」と必死に頼みながら泣きそうな顔をしているのはけんいち君にはものすごく面白くて仕方がなかったのです。
 でも、けんいち君の不安はその日のうちに現実になってしまったのです。

 それは給食が終わって昼休みが始まったばかりのときのことでした。
 給食係は配膳室に食器を運んで、みんな昼休みの遊びのために次々と、グランドや体育館へと向かって行きます。いつもならば、真っ先にグランドや体育館に向かって走って行くはずの、活発な子だったけんいち君が、その日は一人じっと机の上を見つめながら座っていました。
 友だちが「おい、のぶお、早く行こうぜ!」と誘っても「うん、後で行く」となかなか席を立とうとしません。とうとう教室の中の男の子はけんいち君一人だけになりました。あとは千枝子ちゃんを含む女の子たちがおしゃべりしているだけです。

 実はけんいち君は給食を食べた後、急にうんちがしたくなっていたのです。
 朝、寝坊したために、ついうんちするのを忘れて家を出てきてしまいました。それでも午前中は何もありませんでした。
 でも給食の時間、朝食をあまり食べてこなかったので、お腹がすいていて、その日、休んでいた子がいたのを幸いに、牛乳を二本飲みカレーシチューも二杯もおかわりしたときから、けんいち君のお腹はぐるぐると急に動き出しました。

 そして、お昼休みが始まった時点で、かなりぎりぎりのところまで来ていて、もう家まではガマンできそうもなく、このお昼休みの間に「学校うんこ」を覚悟しなければならないことは、そのときのけんいち君にもわかっていました。

 例の「ピンポンパポーン」は気づかれないようにこっそり行けばなんとかなるかもしれませんが、こっそり行くには手持ちのちり紙が必要でした。もちろんけんいち君にはそんなものはありません。
 以前、個室のドアをいたずらで開けたときちり紙を忘れてきた一年生が代わりにアニメキャラのハンカチでおしりを拭いているのを見たことがありましたが、そんなハンカチもけんいち君は持ってきていませんでした。
 いっそのこと、硬いけどノートをちぎって持っていこうか、うんちをガマンしながらそんなふうにちり紙のことばかり考えていました。

 そんなけんいち君の様子に最初に気づいたのは佐藤先生です。佐藤先生は一人座っているけんいち君のところに近づいて言いました。
「あら、のぶおさん、昼休みなのに元気がないわね、どうしたの?」
 けんいち君の頭には佐藤先生からちり紙をもらうことが頭に浮かびました。

「あのね、先生・・・ちょっとお腹が痛い」
 これがけんいち君には精一杯でした。「うんちがしたい」どころか「ちり紙ください」も恥ずかしくて言えなかったのです。

「顔色がよくないから、大したことがなくても少し保健室に行って休んできなさい、でも先生は職員室でこれから緊急の会議があるから、そうね・・・。」
 けんいち君は頼みの佐藤先生がいなくなったことにがっかりしました。

 先生を見回して教室の奥で他の女の子たちとおしゃべりをしている千枝子ちゃんを見つけると、手招きして言いました。
「ちょっと千枝子さん、いいところにいたわ。のぶおさんがお腹が痛いそうよ。でも、先生は緊急の会議ですぐに職員室に行かなければならないのよ。あなた保健係だから保健室までいっしょについて行ってもらえない?」
「わかりました、先生」
 そう言うと佐藤先生は教室を急ぎ気味に出て行きました。

 椅子に座ってうつむいたままのけんいち君が具合がよくなさそうなことは、千枝子ちゃんの目にもはっきりわかりました。
 さっきはあんなに憎らしかったけんいち君ですが、今度はかわいそうになりました。

「さぁ、いっしょに保健室に行きましょう」 千枝子ちゃんはうつむいたままのけんいち君に声をかけました。
 でも、けんいち君はすぐには顔を上げませんでした。その間、けんいち君は何かを考えているかのように千枝子ちゃんには見えました。

 その時けんいち君が考えていたのはお漏らしのことでした。もう、このままだと家どころか次の5限の授業になる前にお漏らししそうでした。
 うんちをお漏らしすると、玄関わきの足洗い場でクラスどころか学年中の男子の見守る中、先生にホースで水を掛けてお尻を洗われることになります。
 でも、朝けんかしたばかりの千枝子ちゃんにちり紙がなくてトイレに行ないことを打ち明けるのは屈辱的でしたが、クラスの男子と違って千枝子ちゃんならからかわないでまじめに対処してくれるかもしれません。
 けんいち君は思い切って千枝子ちゃんに打ち明けてみようと決意しました。
 周りを見回して男子がいないことを確認すると、千枝子ちゃんの目をじっと見つめながら、こっそりとささやくように言いました。
「おれ、ほんとはオンナベンジョに行きたい・・・大がしたいんだ」
「今、お昼休みだから、今、行ってくれば?
「でも、ちり紙がないんだ・・・」
千枝子ちゃんは衛生検査のことを思い出しました。
「だから、持って来ないとダメでしょう。いいわ、貸してあげる」
 千枝子ちゃんは、ポケットの中のちり紙を見ました。
「そんなにないわね。そうだ! ちょっと着いてきて。もう少しならがまんできるでしょう」
「うん」
 千枝子ちゃんは教室に残っておしゃべりをしていた女の子たちのところに走って行き大声で言いました。

「ねえねえ、けんいち君、大の方のお便所に行きたいそうよ。でも、ちり紙を持ってきていないから、一枚ずつでもいいから貸してあげて」
 けんいち君はとても恥ずかしかったですが、今は千枝子ちゃんだけが頼りなので、後を着いていきました。
 すると、千枝子ちゃんの後をのそのそ着いてきたけんいち君の顔を見て女の子の一人がこういいました。
「他の男子なら、まだちり紙貸していいけど、けんいち君はね・・・」
 一人が口火を切ると、その場にいた女の子たちが次々とけんいち君に向かって厳しい言葉を投げつけました。
「わたしも、二年生の時スカートめくられたわ」
「わたしなんか一年生のとき靴隠されたわ」
「わたしなんか遠足に行ったときお便所でのぞかれたわ」
「けんいち君、最低! うんち漏らしちゃえばいいのよ!」
 いつもならば、けんいち君は何か憎まれ口を叩いて言い返す男の子でしたが、そのときはずっと女の子の非難をうつむいて聞いていました。
 ときどき身をよじらせながら頼むように「おねがい貸してよ、もれそうなんだよ」と小声で言うだけでした。

「まあまあ、私の頼みだと思って今回は貸してあげてよ。
 けんいち君ももう女子をいじめないと約束する?」と千枝子ちゃんは言いました。
「うん」とけんいち君はいいました、
「明日からハンカチとちり紙をきちんと持ってくる」
「うん」と再びけんいち君は答えました。
 すると女の子たちを顔を見合わせて、うんとうなづくと「今回は千枝子ちゃんの頼みだから、貸してあげる」と言って女の子の一人千枝子ちゃんに一枚ちり紙を渡しました。

 続いて「わたしも」「わたしも」と続けて他の女の子たちも一枚ずつ千枝子ちゃんにちり紙を渡しました。たちまち、十分な量のちり紙が集まりました。
「ありがとう、みんな」と千枝子ちゃんは少し微笑んで礼をいいました。
「みんな、ありがとう」とけんいち君も消えそうな声で礼をいいました。千枝子ちゃんはもらったちり紙を折りたたむと、
「これでお便所に行けるわね、早く行ってらっしゃい」と言ってけんいち君にちり紙を手渡しました。
 けんいち君はちり紙を受け取りズボンのポケットにしまうと、突然じっと千枝子ちゃんの目を見ました。
 そのときのけんいち君の目もほほも恥ずかしくて泣きそうで真っ赤でした。

 千枝子ちゃんはそんなけんいち君に「どうしたの、もらしちゃったの」と聞くと、けんいち君は突然「うぇーん」と泣き出してしまいました、そして「見るな、馬鹿!」と大声で叫んで千枝子ちゃんを、いきなり突き飛ばしました。
 その場で床に倒れた千枝子ちゃんは一瞬何が起こったかわかりませんでした。
 しかし起き上がると、泣き顔でけんいち君が自分の机の脇にいて、そこで何かを始めているのが見えました。よく見ると、後ろ向きでけんいち君は大慌てでズボンを脱いでいたのです。
 どれくらい大慌てだったかというと、ズボンを脱ぐ前にズックを脱ぐのを忘れてずどーんところんだくらいです。
 けんいち君、うんちする前に体操着に着替えるのかしらと千枝子ちゃんは思いました。
 そして足のズックを大急ぎで脱いで、ズボンを脱ぎ直して、そのまま机に置くと、今度はパンツも脱いで、けんいち君のまん丸のおしりが現れました。
 こうして突然ふりちんになったけんいち君に気づいた教室の女子は「キャー、エッチ」と叫びました。千枝子ちゃんも一瞬息をのみました。
 でも、千枝子ちゃんはけんいち君の行動の意味がすぐわかりました。千枝子ちゃんには二つ下の弟がいて、弟もまた全部脱がないとできなかったのです。

 こうしてふりちん姿になったけんいち君はかかとを踏みつけたままズックを履き、おしりもおちんちんも丸出しという格好で「ごめん、おれ、全部脱がないとできないんだ!」と涙声で言いながら。教室の戸をバシッという音を立てて開けて、後ろの出口から走って出て行きました。

 開いたままの出口からは、しばらくは、かかとを踏みつけたズックのかかとの部分が、木の廊下に当たるパタパタという甲高い音が聞こえました。

その音が聞こえる方向には、一番近い体育館の渡り廊下手前の男子便所があったのです。その間も恥ずかしさと悔しさで涙が止まらなかったので、けんいち君の手の甲はずっと目のところにありました。

 千枝子ちゃんはふとけんいち君の机を見ると、そこに脱がれたままのズボンには、さっき渡したばかりのちり紙が入ったままになっていました。

「忘れていったのね、大変!」

 そう言うと千枝子ちゃんはちり紙の入ったズボンとパンツを持って、けんいち君のあとを走って追いかけていきました。
 ちり紙を持って行くのを忘れたというのももちろんですが、帰りもふりちんのまま歩いてくるといういうのはあまりにもかわいそうに思えたからです。

 千枝子ちゃんが渡り廊下の男子トイレに行くと、入り口にはもう情報が伝わってきていてすでにクラスの男子たちが集まっていました。
「ピンポンパポーン! 臨時ニュースです! 臨時ニュースです! のぶおがオンナベンジョに入りました、しかもふりちんです」
「のぶおもドアを開けてやろうぜ」
 といつものようなことを言っていました。 千枝子ちゃんは、そんな男子トイレに集まったクラスの男子たちの前に立つと、じっと睨み付けて言いました。
「うんちするところを見るなんて、けんいち君がかわいそうじゃないの! うんちをするのは食べ物を消化したかすを出す、人間にとって大切なことなのよ。汚いことでも恥ずかしいことでもないわ!本当にすると先生に言いつけるわ!」
 普段ならば、男子便所に入った女子は「ヘンタイ!」と冷やかされるところですが、このときは、
「千枝子がいうなら仕方ないな・・・。」
男子たちは引き上げていきました。

 そして、千枝子ちゃんは女子が普通入らない男子便所をけんいち君が教室に置いてあったズボンとパンツを持っていくために入りました。
 昼でもでも薄暗いお便所の床はコンクリートのままで、右には小便器が左は個室が10個くらい並んでいます。ズックを脱がなくてもいいように、木の足場がそれぞれの前にありました。
 個室は入っていてもいなくても戸が閉まっている構造なので、見ただけではどこにけんいち君が入っているかわかりませんでした。

 「けんいち君、どこにいるの? ちり紙忘れてきたでしょう。パンツとズボンも持ってきたのよ。いたら返事して。」
 千枝子ちゃんは大声で叫びました。

 そして耳をすますとどこかから「わーんわーん」と泣いている声が聞こえてきました、 続けて「ここ」という泣き声混じりの声も聞こえました。まだ、けんいち君は泣いていたのです。
 「けんいち君、ここにいるの」と千枝子ちゃんは声の聞こえた方のドアをノックしました。「ここ」というけんいち君の声とノックが帰ってきました。
「大丈夫、間に合った?」
「間に合った、でも少し便器汚した。もう少しかかりそう」
「ズボンとパンツもってきたわ、ちり紙も持ってきたから、ちょっとドア開けてくれない」
「うん、でも、絶対中を見ないで」
「見ないわよ」
「絶対だよ、絶対だよ」
するとドアが少し開きました。
 千枝子ちゃんは入り口の方にそっとちり紙を置くと、ドアをしめてあげました。
「ほんとうにありがとう」
「ちり紙忘れたのに気づいたときはどうしようかと思ったでしょ」
「うん、後で洗えばいいから、手で拭くしかないかと思った」
 千枝子ちゃんにはまだ、けんいち君の鼻をすする音が聞こえました。
「男の子だから、そんなことでいつまでも泣いているんじゃないの、それと汚したなら、ちり紙で拭いて出てくるのよ」
「うん、わかったよ」
 まだ、けんいち君はしゃがみながら泣いていました。しかし、それは千枝子ちゃんへのありがとうの涙に変わっていたのです。